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梶本の人生と家づくりへの想い |
商売人の子供として生まれる
私、梶本幸嗣は1970年5月5日に和歌山市東長野町にて、
4兄弟の末っ子として産まれました。
父は『梶本商店』という会社をつくり、
母と共にプロパンガスや灯油などの燃料、
住宅設備などの販売を行なっていました。
私が産まれた1970年は、
日本で初めて万国博覧会が開催され、
高度経済成長期が続いていた頃です。
当時は現在のようにパソコン機器もなく、
何もかもをマンパワーに頼っていて、
家業の燃料販売店も大晦日の夜まで仕事をするのが当たり前の時代。
私も小学校に上がるまでは母親の実家に預けられていましたが、
その頃は割とそんな子供が多かった記憶があります。
両親が必死に仕事を頑張ってくれたおかげで、
小学生になる頃には店舗兼自宅を建ててくれ、
一緒に暮らすようになったのですが、
私はその頃からずっと家業のお手伝いをさせられていました。
商売人の子どもはどこもそんな感じでしたけれども(笑)
学生時代
小学生になると、まわりのみんなは少年野球チームに入る中、
丸坊主が嫌で、サッカーのクラブチームのようなところに入会し、
中学生まで続けました。
ただ、特に打ち込んでいたわけではなかったので、
このまま普通に高校に進学すると、
友だちと遊びたおすのではないかと両親が心配し、
進学校である私立高校に入れようと、
家族ぐるみで画策されたのです。
中高一貫のその学校に中学から通っていたサッカー部だった
兄の、「一年からサッカー部のレギュラーになれるぞ」という
根拠のない言葉にのせられて受験。
その結果、入学が決まったのですが、
その高校はとにかく遊ばせず勉強に集中させる方針で、
嫌だった坊主頭も校則で決められていました。
そんな中でスポーツをすることは大変なことで、
サッカー部は甲子園の常連になるような野球部から
練習の邪魔者扱いです。
それでも、キャプテンとして少ない部員たちを率いて
部の存続を認めさるために戦っていた高校時代でした。
サッカーは今でも地元のチームに入っており、週に一回頑張っています。
激変した人生
高校を卒業し、浪人時代を経て大学生に。
大学では当時の学生らしく?お酒にたばこにバイト、
スキーにダンパなど
一通りの遊びもし、あまり勉強はしていませんでした。
しかし、そんな生活が22歳の時に突如激変・・・
両足全体の腫れと痛み
白血球の異常な増値
両手の血行障害で指先が白くなり、
怪我もしていないのに傷ができて治らない
傷口は二週間たっても青白く開いたまま
そうしてるうちに指先が壊死
現代の医学でも未だに病名が確定されていない、
難病を発症してしまったのです。
指先の壊死が始まったことで即入院となり、
治療が始まりましたが、
症状を抑えるための対処療法しかなく
点滴と強力なステロイドを投与するだけ。
夜になると指先がドクンドクンと疼きだし、
痛みで横になることもできないため
手を心臓より高く上げてなんとか我慢できる体制を保ち、
そのまま朝までベッドに座り続ける。
そして疲れ果て、昼間に少し寝る、という
そんな入院生活でした。
それでも医療としては対処療法しか方法がないと言われ
症状が改善することはなく、
なんとか進行が止まっている状態。
そんな中、何かいい方法がないのかと、
母親が必死に探してくれてたどり着いたのが
食事を正して体内を綺麗にし、
自己免疫力をあげて病を治療するという先生でした。
ただ、その先生は全国を飛び回っていて、
直接会うことができなかったため
まずは電話や写真で症状を伝え、
血液検査や血圧測定の結果を送りました。
先生の見解は、
魚系の油分で静脈が詰まっている状態
とのことで、
「このままでは手首を切断し、最終的には肩から切断することになる」
と言われ、
言葉がでないほどの衝撃を受けました。
当時、ある程度の覚悟を持って母親とは、
「指先は無くなってもしょうがないなあ」と
話していたのですが
まさか腕を全て失うとは思ってもおらず・・
病とたたかう日々
先生のご指導のもとで治療が始まったのですが、
一番大変だったのは、紛れもなく母だったと思います。
母は必死なって勉強して食事をつくり、
それを毎日病院に届けてくれる。
食事内容は
- 魚介類は、一切なし(出汁も)
- 大根を中心に根菜を煮込んで水分を飛ばしたもの
- キャベツ・キノコの煮込んだものを時々
- 玄米ご飯を少々
というようなもので、塩・砂糖・みりんは使わず
梅干しや海藻エキス等を使う。
まだまだ描ききれないくらいのルールがあるのですが、
毎日毎日、母が頑張ってくれました。
こうして入院しながらの食事療法を続けると
徐々に両足の腫れとかゆみが軽減。
それだけでもずいぶん楽になったのですが
依然として指の状態は変わらずでした。
しかしある日、先生が病院に来てくれた時に
血液検査の結果と実際の症状を見て、
「効果は出ているからこのまま続けてください」と。
不安に思った私は、
指の痛みが良くなっていないことを伝えてみました。
すると先生が私の首から肩、
そして指先までを順に触診し、
最後に指先をギュッと押しました。
その瞬間、とんでもない痛みとともに「プチッ」と音がなり、
爪の間あたりから膿がでてきました。
「これが毒素です。」
と先生に言われ、
驚くことにそこから指の痛みが改善し、
久々にその夜眠ることができたのです。
その後は先生に言われた通りに、
痛みだしたら自分で膿を絞りだすことを続けていると
痛みもなくなり、指先の黒く壊死していた部分も
少しづつ小さくなり、
最後はかさぶたがとれるように落ちました。
そして入院生活を終え、無事に退院。
その後も発症と回復を繰り返しましたが、
それでも食事に気を配りながらの生活で
症状は確実に少なくなっていき、
五年後くらいには周囲と同じような暮らしが送れるようになり、
現在ではほぼ完治しました。
就職
そんな病気を抱えながらも、
周りの方々の援助のおかげで大学は卒業しましたが、
やはり一般企業の就職は叶わず。
なんとか親が営む会社に入れてもらいましたが、
常に発症の不安と闘いながら働いてました。
仕事では現場が好きな私でしたが、
やはりこの体では現場の厳しい環境はつらく、
しんどい思いをしていました。
そこで、直接作業ができないなら、
資格を取得して必要とされる人間になろう。
そう考え、次々と資格取得に挑戦。
はじめは設備施工に関わる資格を取得していったのですが、
徐々に建築の分野にも幅を広げ
一級建築士と宅建士の資格も取得。
そのことがきっかけとなり
新築やリノベーションなど、
住環境について深く関わる機会も増えてきました。
そして、
お客様のためになる家をつくりたい
という想いが日々強くなっていき、
本格的に住宅事業を立ちあげることに。
家づくりへの想い
私自身が病気で苦しんだ経験から、
お客様には同じ思いをさせたくない
という強い想いがあります。
人が本来持っている自然治癒力や免疫力が
周囲に化学物質や添加物に対する
対応に追われて狂わされている。
それが要因となって
本来の病気の治癒に生かされず、
アレルギーや原因不明の病気などが増えている。
日常生活において人が長時間過ごす住環境が
様々な要因にもなっている。
その事実を知った私は、
体に良くないものはできるだけ使わない
そんな家づくりを目指して、
様々なことを学び
試行錯誤を重ね、
今日まで歩んできました。
私たち『かじもと』の家づくりならば、
必ずお客様のお役に立てると信じて
これからもお客様のための家づくりに努めてまいります。
株式会社かじもと メルハウス 代表 梶本幸嗣

















